【序章】-夜のひとときに-
夜の八時を過ぎた時、台所に幼い少女が入ってきた。
「おかーさん、おはなしきかせて」
遠慮がちに話し掛ける少女に、母親は皿洗いの手を止めて微笑む。
「ちょっと待っててね、すぐに終わらせるから」
「うん、おへやでまってるね!」
少女は目を輝かせて元気に頷くと、寝室にしている和室に駆け込んだ。
それを見届けると、母親は早々に皿洗いを中断した。そして居間の本棚から絵本を一冊取り出すと、少女が待つ和室の襖を開ける。
「お待たせー」
部屋では既に、布団を被って準備万端の少女が、母親を待っていた。
「おそーい!」
「ごめんごめん」
頬を膨らませて文句を言う少女に、母親はにこやかに謝ると、少女の布団に潜り込んだ。
「きょうは、なんのおはなし?」
少女は興味津々に訊ねてくる。
「今日はですねぇ……じゃじゃーん!」
「おう!」
母親が効果音を付けて絵本を取り出すと、少女は少し大袈裟に驚いて見せる。
「“黒い花”でーす!」
「くろ……? おはな、くろいの?」
ピンクや赤など、明るい色が好きな少女は、少し不満そうに首を傾げる。
そんな様子の少女に、母親は微笑みを返すと、絵本の表紙を見せた。
マーガレットのような形の花弁は黒く、そして花粉は真紅に塗られている。可愛らしさとはかけ離れた絵に、少女はますます不満そうに眉をひそめた。
「そんな顔しないで。ずーっと昔からあるお話でね、お母さんも小さい頃、おばあちゃんに読んでもらったのよ」
「ふーん……。むかしって、どれくらい? ひゃくねんくらい?」
訊ねる少女に、母親が首を振る。
「ううん、もっとずっと前よ」
「じゃあ、えどじだいくらい?」
「んー……、ハズレ」
「じゃあ、えっと、んと……もーっ、いつなのよーっ!」
なかなか正解をもらえない少女は、唇を尖らせた。
「あっはっはっはー」
「むきーっ!」
母親は勝ち誇ったように笑った後、片目を瞑った。
「最後まで起きていられたら、教えてあげても良いわよ」
「絶対起きてるもん!」
「さー、どうでしょう?」
握り拳を作って意気込む少女に、母親はからかうように言った。それに対して、少女は頬を膨らませはしたが、それ以上暴れなかった。
大人しくなった少女に、母親はクスリと笑う。そして絵本の表紙を開くと、少女も母親と一緒になって絵本を覗き込んだ。
母親は少女の横顔をチラリと見た後、ゆっくりと、そしてはっきりとした口調で読み始めた。
「それは、遠い昔の事でした……――」
【本章】-黒い花-
昔々あるところに、深い森がありました。
森は昼でも薄暗く、近くに住む人間たちは皆、気味悪がって入ろうともしません。
そんな森の奥には広場があります。
空から見ると、丸く口を開けたように見えるその場所は、そこだけ太陽の光が降り注ぎ、まるで天国のようでした。
その中央に、十人が手を繋いでも届かないほどの太い幹を持った桜が、堂々と根を張っていました。
桜には森の神様が宿っていて、動物たちは皆、神様のことが大好きでした。神様もまた、動物たちが大好きなので、遊びに来る動物たちを全て受け入れます。
だからいつも、広場は動物たちで賑わいを見せていました。
そんなある日、神様は森に住む全ての動物たちを、広場に集めると言いました。
「皆に、永遠の命を与えましょう」
そう言うと、神様は死んでしまった青い小鳥を地面に寝かせ、その上に手を翳しました。
すると、どうでしょう。小鳥が横たわっていたはずの所に、小さな芽が頭を出していたのです。
動物たちは驚いて、その芽を見詰めました。皆の視線を浴びて、芽はどんどん大きくなり、ついには青い、小さな花を咲かせました。
「まさか!」
「嘘でしょう?」
動物たちは皆、口々に驚きの声を上げました。驚く動物たちに、神様は微笑みました。
「この花は、散ってもまた芽を出して、新しい花を何度でも咲かせます」
そして目を細め、花をいとおしそうに愛でて言いました。
「正に、“永遠の命”なのです」
この日から動物達は、“永遠の命”を手に入れたのでした。
“森の神に会えば、永遠の命を手に入れることができる”
どこから広がったのか、その噂はいつしか、近くのムラまで伝わっていきました。
そして、それを他人から伝え聞いた長老は、自分の部下たち四人と共に、森に出かけようと計画しました。
「いけません! 森は危険すぎます」
部下の一人が言いました。しかし長老の心は揺らぎません。
「私は“永遠の命”が欲しい。どんな事をしてでも、手に入れてみせる」
そして、長老は止めようとする部下を振り払い、残りの四人と共に森の奥を目指しました。
「神様!」
突然現れた人間たちに驚いて、一羽の鴉が広場に飛び込んできました。
「人間が来たのですね」
「はい」
神様は困ったように笑いました。
「彼等が来るのを待ちましょう」
神様は言うと、木の中に消えていきました。鴉は神様を見送ると、桜の枝に止まって、人間たちが来るのを待ちました。
それから暫く経つと、広場の入り口に五つの影が現れました。人間です。
彼等は広場に入ると、桜の前で立ち止まりました。
「これが、神の木か?」
髭を生やした男が、痩せ型の男に訊ねました。
「ああ、こいつに違いねぇ」
「他の木よりも、何倍もでかいもんな」
続けて、小太りの男が言いました。他の二人も、「うんうん」と声を上げて、何度も頷きました。
「来ましたね」
鴉は人間たちのやり取りを見ながら、神様にだけ聞こえるほどの、小さな声で言いました。
「ええ……お待ちしていました」
カラスへの返事もそこそこに、神様は木の中から出てきて、彼等の前に立ちました。
「あなたが森の神ですか?」
髭を生やした男が、神様の前に歩み出て訪ねました。
「ええ、そうです」
神様は頷きました。すると、人間たちは神様を取り囲み、強い口調で言いました。
「あなたに会えば、“永遠の命”を与えられると聞きました」
「……そうです」
神様が頷くと、人間たちは「おお」と声を上げて驚きました。
そして、
「ならば我々にも、その“永遠の命”というものを授けて下さいませんか?」
顔に傷のある男が言いました。しかし、神様は首を振って、悲しそうな顔をしました。
「この術は、私が心より愛し、愛された者にしか使うことができないのです。例え、私があなた方を愛しても、あなた方が私を心より愛して下さらない限り、あなた方に“永遠の命”を与えることはできないのです」
そして最後に、「信頼関係が大切なのですよ」と微笑みました。
すると彼等は、あろうことか、下げていた弓矢をご神体である木に向けて構えたのです。
「それは、私たちを信用していないという事ですかな?」
「神といえど、今会ったばかりの人間を信用できる訳がないでしょう?」
神様が言いました。
「クソッ、放て!」
髭を生やした男が怒鳴ると、人間たちは一斉に矢を放ちました。神様は矢が刺さることを覚悟して、ぎゅっと目を瞑りました。
しかし一向に、矢は神様に当たりません。そっと目を開けてみれば、目の前に黒い羽が舞っています。
不思議に思って見下ろせば、足元に五本の矢を体に突き立てた鴉が、神様の足元に落ちています。
そこで、神様はハッとしました。
この状況をずっと見ていた鴉が、神様の前に飛び出して楯になったのです。
神様は慌てて鴉を抱き上げ、呼吸を確かめました。しかし既に息はなく、よく見れば、五本の矢の内一本は、カラスの心臓を貫いていたのです。
「何ということを……」
神様は、怒りと悲しみに体を震わせ、人間たちを睨み付けました。しかし人間たちは、何事もなかったかのように両手を広げて、大声を出しました。
「さあ、我々に永遠の命を!」
神様は鴉の身体から矢を抜き、地面に寝かせると立ち上がりました。
「……分かりました。特別に、“永遠の命”を与えましょう」
そう言うと、神様は五人に手の平を向けて、力を込めました。
一瞬の事でした。
強い光りが五人を包んだと思うと、光が消えた時、彼等がいたはずの所に人影はなく、代わりに五本の枯れ木がそこに倒れていました。
「これが、“永遠の命”ですよ」
神様は枯れ木に呟くと、今度は足元の鴉に手を翳しました。柔らかい光りが鴉を包み、少しして光が消えると、そこには鴉の羽と同じ、漆黒の花が咲いていました。
「ごめんね」
神様が花を優しく撫でると、涙が頬を伝いました。
「人間なんて、大嫌い……」
神様が人間を許す日は、きっとずっと来ないでしょう。
それから長い間、その森は人間を拒み続けています。
今も。
噂によれば、“黒い花”は今も、どこかの森の奥で咲き続けているそうです。
【終章】-物語の後に-
「――遠い昔、本当にあった物語……あら」
絵本を読み終えて、ふと隣を見ると、少女は可愛らしい寝息を立てて眠っていた。
「四歳児には難しかったかしら?」
母親の呟きに、少女は身じろぎもせず眠っている。
母親はクスリと笑うと、少女の髪を撫でて、優しい声で囁いた。
「おやすみなさい、良い夢を見てね」
ある所、ある親子のあるひととき。
‥終わり‥