塩素の匂いが、嗅覚を刺激する。
私は耐え切れず、水に付けていた顔を上げて何度も咳をした。
それを見た小林先生が、私の背中を叩いて心配そうに声をかけてくれた。
「大丈夫?」
「だい、じょうぶです。……何とか」
「そっか、気を付けるんだよ?」
「はーい」
先生は安心したように、小さく息を吐く。そしてすぐに、他の人を指導するために、私から離れて隣のレーンに移動した。
私はそれを見送ってから、後ろを振り返る。
「もうちょっとで半分だったのに」
あと二メートルも泳げば、二十五メートルプールの半分を超えていたというのに。
自己記録を更新できなかった悔しさに、私は思わず拳を握った。
「星来ちゃん危ないよ」
「え? あ、ごめん」
プールサイドから声をかけられて、急いで水から上がる。 その直後、赤い水泳帽の女子がクロールで通り過ぎて行った。華月だ。
泳ぎの上手い人よりもゆっくりでおぼつかないが、何とか最後まで泳ぎ切った。
立ち上がった彼女は、嬉しそうに笑っている。
「泳げたよ!」
華月は私を見つけると、ブイサインを作り笑いかける。
満足気な彼女に、私は軽い反感を覚えた。
「私なんて、半分も泳げなかったのよ。華月ばっかり、ずるいじゃない」
「そんな事言ったって、泳げたんだもん。しょうがないじゃん」
華月はそう言って頬を膨らます。
「あんた……」
「頑張ってー!」
言い返そうとしたとき、プールの反対側で、大きな声援が私の声を遮った。
何だろうと思って声のする方に目を遣る。 見遣った先では、ゴーグルを着けた理奈が、飛び込み台を前にして真剣な面持ちで立っている所だった。
「理奈だ」
「すごい、本格的だね」
理奈の身形を見て、華月が関心したように呟く。
「格好だけじゃないんだから」
理奈が飛び込み台に立ち、それに続いて他の児童も準備を終える。
「位置に着いてー、……よーい、ドン!」
競争相手が全員出揃うと、禿げ頭で有名な学年主任の江川先生が、ピストルの代わりに手を叩いた。
それを合図に、彼女達は一斉にプールに飛び込んだ。
飛び込む瞬間は、それ程変わった様子は見られない。
しかし、それからがすごかった。
飛び込んで一旦沈んだ体が浮いた時、理奈は既に他を大きく引き離していたのだ。
理奈は、大きな波を立てる事もなく静かに進んでいく。
その表情も、決して苦しいものではない。
逆に、楽しんでいるようにも見える。
「すごい、人魚みたいね」
優雅に泳ぐ理奈の姿を見詰めて、華月がうっとりと目を細める。
「良い事言うじゃない」
華月の言うとおり、水中の理奈は、まるで人魚のようだ。
折り折り返しなど、思わず溜め息が漏れるほどしなやかだ。
プールサイドの観衆は、応援も忘れて理奈だけを見詰めている。
「あっちは誰?」
理奈の少し後ろを着いて来る、ピンクの帽子を被った女子を指して華月が訪ねた。
理奈ほど上手くはないが、それなりのスピードと安定した泳ぎが、見ている者を安心させてくれる。
「斎藤さんじゃない?」
理奈のゴールを見届けてから、次いで到着したピンク帽を確認した。
すぐに後ろを向いてしまったため、はっきり見えなかったが、おそらく、同じクラスの斎藤希恵だろう。
クラス一大人しく、体育もあまり得意ではなさそうだったが、こんな特技があったとは。
感心する私の隣で、華月は「今度教えてもらおうかな」と呟いた。
‥NEXT‥
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