その昔、雲の上には町があった。そこは、地上とは異なった不思議な力に包まれた世界で、そこへ住む人達も不思議な力を持っていた。
そこに、容姿の美しい男がいた。彼は強い月の力を持っていた事から、地上の人々から月神と呼ばれ、崇められていた。
ある夜、彼は用あって地上に出かけた。
山間で栄えている町に、月見という彼の親が決めた許婚がいるというのだ。
さすがに、見も知らない相手と結婚するのは嫌だろうと、会いに行くよう父親に勧められたのだ。
だが、例え今回会ったとしても、結婚相手は自分で決めたい。そう強く思うが、親の言う事には逆らえないのが彼だ。
結局何も言えず、地上に降りて来てしまったのだ。
重い足を無理矢理進めていると、数歩先に若い娘が蹲っているのを見つけた。
「こんな所で、何をしている?」
声をかけてみると、娘はびくりと肩を震わせこちらを振り向いた。白く美しい肌だ。その瞳も美しい。見た所、十七歳位だろうか。
彼女は足首を抑え、大きな目に涙を浮かべている。
「足を痛めたのか?」
様子を見ようと、娘の前にしゃがみ込む。すると反射的に、娘が逃げようと立ち上がった。
「いっ!」
しかし、思いのほか怪我が酷いのか、表情を歪めて座り込む。
「無理をするな、見せてみよ」
「だっ、大丈夫ですっ!」
断る娘を無視して、痛がっていた足を掴み上げ、わらじを脱がせる。
「これで大丈夫とは、気丈な娘だ」
色白の肌が、一部分だけ赤く腫れ上がっている。熱を持ち、少し触れただけでも娘の苦しそうな声が聞こえてくる。
「これでは、まともに歩けんだろう」
彼は言うと、大きな手を娘の足首に翳した。そして目を閉じ、強く念じた。
彼は、あらゆる傷を治癒する能力を持っている。患部に手を翳して念じるだけで、ある程度治療する事ができるのだ。
「これで、少しはマシになっただろう」
手を退けてみると、真っ赤だった患部は元の色に戻り、熱もなくなっていた。念のために、持っていた薬も湿布してやる。
そうしている内に、娘の緊張も解れたようだ。ずっと強張っていた肩から力が抜け、不安気だった目も穏やかなものに変わっていた。
「ありがとうございます」
「礼には及ばん」
最後に包帯を巻いて、先端を織り込む。
「立てるか?」
立ち上がり、娘の前に手を差し伸べる。彼女は少し躊躇ってから、彼の手を取り足に力を込めた。
「立て、ました」
さっきまで、自力で立つ事もままならなかったのに、と娘が不思議そうに足元を見下ろす。
「家に帰ったら、できる限り安静にしていろ」
これはあくまで応急処置。あまり酷使しない方が良いだろう。
「ここらは野盗が出る。町まで送ろう」
「そんな、悪いですよ」
そうは言っても、怪我した足で、この不安定な道を歩くのは大変だ。
「私も、町に用があるのだ」
それに、この暗い道を娘一人で歩かせるのは気が引ける。娘の顔を覗き込んで見ると、彼女は少し困ったように視線を泳がせていた。
しかしすぐに諦めたように息を吐き、眉を寄せて微笑んだ。
「それじゃあ、お願いします」
最初は町までと言っていたが、足の調子が思わしくなく、結局娘を家まで送る事になった。
「初対面の方なのに、すみません」
「気にするな」
町の中心より、少し外れた静かな住宅地。標準よりも少し大きい門の前で、娘が立ち止まった。
「ここが、私の家です」
「ふむ、月見とな」
門に掲げられた表札を見て、はたと気付いた。この名字に、覚えがある。
「そなた、本日は誰かと会う用事があったのではないか?」
「どうしてそれを?」
「雫、遅かったな……おお、一緒でしたか」
目を丸くして訊ねる娘の後ろから、肩の広い男が出て来た。男はこちらを見ると、目を輝かせ深々と頭を下げる。
「さっき、町の外で会った」
「そうですか。ささ、中へお入り下さい」
「あのっ、あなたは一体……」
混乱した様子で、娘が訊ねる。
「何だ、知らないでいたのか?」
「仕方ない、私も今気付いたのだから」
彼は父親に告げ、娘の前に歩み寄る。
「申し遅れたが、私の名は月(げつ)。人からは、月神と呼ばれている」
「月神、様……?」
娘が息を飲んだのが分かった。
「そなたの名は?」
「あ、雫。月見雫ですっ」
彼の問いに、娘が慌てて答える。
「雫、良い名だ。私はそなたの顔を、見に参ったのだ」
クスリと笑うと、娘は彼を見詰めたまま動かなくなった。
それより約一ヶ月後、二人は祝言を挙げた。その際、門出の祝福にと、月の父親が二人に“天満”という新たな名字を授けた。
その由来は解っていない。
二人が初めて出会った夜、月明かりによって天が満ちていたからと、ある人は言う。
これ以来、天満の血は永きの時を経て、途切れる事なく続いている。
‥続く‥
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